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浮世絵版画の欧米への伝わり方

2008-06-12

浮世絵名品の里帰り展覧会が全国で頻繁に開催されています。正確には把握できていませんが、国外にある浮世絵版画の数は、国内にあるものの3倍から4倍の数に当たると言われています。

そもそも浮世絵版画は江戸の人々には特別なものではなく、江戸文化の中では日常的で身近なもので、流行に応じて主題が選ばれ、多くは木版画で量産されて発展しました。安政元年(1854)の開国以来、日本の伝統文化が公式に外国に伝えられるようになりますが、浮世絵版画が日本を代表する文化・美術品になるとは、その頃は誰も思っていなかったでしょう。

1856年のこと、パリの版画家が、日本から陶器を送ってきたパッキングに使われていた葛飾北斎の絵本『北斎漫画』に目を奪われ衝撃を受けたという有名なエピソードがありますが、陶器の梱包材として使われていた反古紙扱いの浮世絵が、西洋の版画家たちを夢中にさせます。まもなくパリ万博(1967年)にも浮世絵が出品され、正式に西洋に紹介されると幅広い層の人々に人気を得ていきます。浮世絵を初めて目にした西洋人たちは、平面的で軽やかな表現、繊細な描写、極端な遠近法の対比を見せる構図など、それまでの西洋美術の価値観とまったく異なる浮世絵に強い関心を持つようになります。それは、西洋の生活や文化や芸術にも大きな影響をもたらす結果となり、19世紀後半から20世紀初めの、日本の美意識をめぐる「ジャポニズム」と呼ばれる様式が誕生することとなります。

そうして日本の美意識への強い憧憬の高まった欧米に、浮世絵コレクターが現れはじめ、日本の浮世絵商たちが大量に浮世絵を輸出していきます。日本人が浮世絵の価値を見直したのは大正期でしたが、時は既に遅く、新たに浮世絵が制作されなくなった時代であり、また、国内にある江戸時代の浮世絵の数はすっかり減少していました。国内では品薄状態になった浮世絵の復刻作業が盛んになると同時に、伝統的な浮世絵版画を基盤として近代的な要素を取り入れた新たな版画制作「大正新版画運動」へと移行していきます。

「美術」という言葉さえなかった江戸時代、優れた美術品を作り上げた江戸の人々と文化を賞賛すると共に、浮世絵は日本の伝統的な美術の代表として広く国際的な知名度を得、世界中の人々を魅了し続けています。

クロード・モネ 『ラ・ジャポネーズ』 1875年 ボストン美術館蔵

フィンセント・ファン・ゴッホ 『タンギー爺さん』 1887年 ロダン美術館蔵