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富本憲吉と臥牛窯

2013-10-06

富本憲吉は1930(昭和5)年1月、家族5人で東京の寒さを避けるため長崎へ旅し、約1ヶ月半を市内の光永寺で過ごしています。

その間、彼は長崎の風景(特にいろいろな橋)を描いたり、波佐見に出向いて古窯で陶片の発掘や地元の窯で制作などを行いました。そしてその時のことを「長崎雑記」として纏めたものが昭和15年、昭森社より発行された「製陶餘録」に収録されています。その長崎雑記の中に、当美術館でも常設展示している臥牛窯を訪ねて制作した時の様子を次のように記しています。

「・・・・・・(前略) 台所、客室、食器貯蔵室、工場、事務室、一切のものは畳ある一室とそれに連なる土間だけで用を便ずる。その一所に立って見れば買い立ての鰯は土間に直接置かれ、俎板を持ち出して菜を刻む老母、漬物桶、釉壷、炉端で茶を煮る老父、皆一眸のうちにある。轆轤する主人、母にだかれて乳のむ児、やはりその土間から畳への上がり口に腰うちかけ彫刻の鉄筆を走らす東京の先生、それは私である。

戸外で物売る声、交尾期にある山羊の奇声、窯づめしつつ泣く子供をあやす弟、この多勢の人々は夜十時まで働きつづけてまたこの一室に寝るのである。そして得る銭は僅少である。ああこの家内工業の残留者達。彼等がこの混然たるうちに平和な仕事を続け得るのもそう永いことではあるまい。(折尾瀬木原横石工場にて)」

結びは、「私はこの旅行で中尾で二百五拾、西ケ原で前後千五百の既成素地に筆を執り、あるいはゴム版を使用し、木原では五拾の自製素地と百の既製素地に染付して陶器を造った。 - 千九百三十年二月二十八日夜長崎光永寺二階にて - 」

臥牛窯の窯元展示室には今でも、富本憲吉がその時に制作した白磁の壷が常設展示してあります。窯元にお出かけの節は、是非ご覧になってください。

1381029449_CIMG5005「製陶餘録<新装復刻版>」(昭和50年文化出版局発行)