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叔母の旅立ち

2020-08-11

おふくろより8歳年下で、私とはちょうど一回り年上になる長崎市内の叔母が、75回目を迎える長崎原爆の日の前日に85歳でお浄土へ旅立っていきました。

被爆者の叔母は生前、(私の母と同様)あまり原爆のことについては話してくれませんでしたが、長崎に原爆が投下された時は市内に一家8人で暮らしていて(竹の久保町かで馬やリヤカーを使った配送業をしていたとおふくろから聞いた記憶がある)、叔母は10歳で小学4年生。同じ部屋で一緒に遊んでいた5歳上の姉は爆風により倒れてきた箪笥の下敷きになり、両親と祖父、弟と妹も命を奪われてしまい、被災後は生き残ったもう一人の姉 (6歳上) と二人で南高来郡千々石町の父方の親戚の所に身を寄せたと聞いたことがあります。

やがて敗戦となり、中国上海の伯父の会社で働いていた長姉(私の母)も千々石の親戚を頼って引き揚げてきて合流し、親戚の小屋の2階で3人の生活が始まり、その後長姉は同町で結婚し私を生み、それからしばらく経って叔母たち二人はまた長崎市内へ戻り、姉さんは勤めて生計を立て、叔母は高校生として暮らしたそうです。

私が小学校へ入学する前の頃、おふくろに連れられお米が入った風呂敷包みを持ちながら千々石から長崎行きのボンネットタイプの県営バスに乗って、砂利道を1時間半くらい揺られ長崎の新大工町バス停で降りて、西山町にあった叔母たちが暮らしている借家へ向かう途中、当時長崎東高校生だった叔母がテニスの練習をしていたところに出くわしたことがあります。

叔母は私たちに気づくなり、「姉ちゃん、姉ちゃん、一三、かずみ、よく来たね~」と言いながら駆け寄ってきて、私の頭を撫でてくれました。その時の私には叔母の姿がとても格好良く輝いて見え、また私のおふくろはいつも、妹たちの中では○○子が一番綺麗で可愛い、と自慢していました。

その後、叔母は良い人と巡り合い結婚し4人の子供に恵まれ、何事にも前向きな性格で、80歳までの数十年間、緑の小母さん(交通指導員)として毎日地域の子どもたちの安全を守り、また地域自治会のお世話をしたり、趣味の刺繍を楽しんだりと充実した人生を送りました。私たち家族は長崎の叔母宅を訪問するのが楽しみで、とりわけ、私には毎回「何を食べたい、何が良い?」と聞いていたので、私はいつも決まって“皿うどんと巻きずし”を所望しご馳走になっていました。また節目節目の事ではいろいろと相談しお世話になり、一番可愛がってもらい、叔母が高校生時に使っていたテニスラケットは、私が中学生になった時に頂いたりしました。得意の刺繍では私の長女は中学生の時、泊まり込みで習いに行ったこともありました。

また、お盆などにおふくろたち三姉妹が寄れば、上の二人はよく「原爆さえなければ・・・」と悲しく愚痴って(?) いましたが、そんな時、叔母はいつも「いろいろ言っても済んでしまって、 (故人たちが) 戻ってくるわけではないし・・・」と二人を慰めながらも、三人とも目に涙をいっぱい浮かべて、原爆で亡くなった両親や姉弟たちを偲んでいました。私は子供心に三人の話を傍で聞きながら、アメリカの理不尽な原爆投下に激しい憤りを感じていました。また叔母は晩年には心臓を患い手術を受けたりしましたが、棺の中の叔母はおふくろが自慢していた通り、本当に穏やかで綺麗な整った顔をしていて、参列の方々も今にも起き上がってきそうな感じの綺麗な顔をしているなどと話していました。

コロナ禍の家族葬で営まれた私にとっては理解はしていてもある面寂しく感じたお通夜と葬儀でしたが、おふくろの関係筋でたった一人生存していた叔母が亡くなり、もうおふくろの妹弟はいなくなってしまいました。

今頃はお浄土で三人、いろいろと積もる話に花を咲かせていることでしょう。 南無阿弥陀仏、合掌 !!