9月も、早や半ば
9月も早や半ばとなりました。
先日、本のタイトルに惹かれてAmazonより入手した「東映任侠映画120本斬り」(山根貞男著 筑摩書房発行)。
本のカバーそでに記してある「1960年代後半から70年代にかけて、高度成長まっただ中の時代に、ヤクザの世界を描いた作品群が量産される。鶴田浩二、高倉健、藤純子、菅原文太などがスクリーン上で活躍する姿は一世を風靡した。それらの作品を同時代に見続けてきた著者が、その面白さの秘密を探る。「網走番外地」「日本侠客伝」「昭和残侠伝」「緋牡丹博徒」などの人気シリーズをはじめ、隠れた名作や傑作を再発見する!」。東映やくざ映画の大フアンとしては堪りません。
私も本書に取り上げてある120作品の内の9割以上は実際に劇場で観て、8割ほどはDVDを持っています。
また、書き下ろしの「まえせつ-東映任侠映画の誕生からその後の展開と終息まで」は、コンパクトにまとめられていて分かりやすく、一つ思い違いをしていたことに気付かされました。
中でも、映画およびマンガの評論家として活躍した同僚の権藤晋の論考を引用して、<わたしはここで新宿東映体験を自慢したいわけではない。ただマスコミや識者による事実の捏造が気になるのである。新宿東映のオールナイトにはせ参じたのは、周辺の工場で働くアンチャンか、飲食街で働くアンチャン、ネエチャンたちであった。彼らが、観客全体の9割を占めていたのだ。全共闘がいたのかどうかはしらない。が、それ以外の観客は1割にもみたなかったはずである。にもかかわらず、マスコミや識者は、「全共闘に支えられた任侠映画」と主張する。そのとき、9割を占めたアンチャンやネエチャンの存在は歯牙にもかけられない。>と批判しているのに対して、‟わたしはまったく同意する。「マスコミや識者」による当時の文化状況の把握は、皮相的なものでしかない。” と述べています。
東映任侠映画全盛時代、それらの作品を主に地方都市の劇場で観て、時代劇作品を踏襲したような善玉悪玉の闘いや、主人公が義理と人情を重んじて生きることなどを単純に楽しんできた私にとっては、少しショックなことでした。