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長谷川等伯と狩野永徳

2010-03-06

東京国立博物館で「没後400年 特別展 長谷川等伯」(~3/22まで)が開催されています。

能登に生まれた等伯は当初、仏画を中心に描いて平安時代が最盛期といわれた仏画の世界で卓越した出来栄えの絵を残しています。やがて京に上り絵師として一本立ちしますが、等伯の生きた室町末期から江戸初期は狩野派全盛の時代で、その時代の寵児であった狩野永徳は信長が築いた安土城の障壁画、信長を継いだ秀吉の大阪城の豪壮華麗な金碧画を描いています。

そのような時代背景の中、等伯は千利休などから中国絵画の知識を吸収し、独自の静寂感ある画風を確立して狩野派の豪華絢爛な作風に対抗しました。

等伯の代表作「松林図屏風」は、左隻の右端に雪山が霞む以外は松の木のみを描いたもので、余白を存分に残して風や大気を感じ取った水墨画は日本の水墨画の極みと言われています。

しかし、永徳没後に描いた「楓図壁貼図」は一転して華やかで装飾性溢れる格調高い豪華な絵で、永徳が作り上げた金碧画様式の作品となっています。これは秀吉の長男・鶴松が3歳で夭折した際に依頼された菩提寺の祥雲寺・障壁画として描いたもので、依頼者の秀吉の派手好みを汲み取ったものとしても、等伯の金碧画様式はその後琳派へと繋がっていったと言われています。

2008年に東京国立博物館で開催された「対決 巨匠たちの日本美術」展で、実際に「永徳VS等伯」の作品対決を目にしました。既に、天下一の絵師と呼ばれた狩野永徳。永徳に追いつけ追い越せと天下一の絵師を志した長谷川等伯。まさに生死をかけてぶつかり合った二人のライバル対決は、桃山時代にタイムスリップしたかのような感じでした。天下人から絵画依頼を受けようと画策したり駆け引きしたりする様子や、実際に描く姿を想像できるようでわくわくして鑑賞できました。

日本絵画の一つの最高到達点を作り出した二人の巨匠の傑作品は、400年後の私たちに日本美術の奥深さや素晴らしさを伝えてくれます。

1267848760_img237長谷川等伯「松林図屏風」左隻 東京国立博物館蔵

1267848760_img240長谷川等伯「松林図屏風」右隻 東京国立博物館蔵

1267848760_img238-1-1長谷川等伯「楓図壁貼図」 京都・智積院