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横浜浮世絵について

2008-06-30

横浜は、1859年(安政6年)の開港により、長崎と同様に外国を通して異国情緒豊かな文化を育んできました。幕末から明治にかけて急速に発展する横浜の開港場を中心として繰り広げられた現象や事物を題材とする末期浮世絵を「横浜浮世絵(横浜絵・ハマ絵)」と言います。時代を反映した横浜浮世絵は、横浜のお土産物としても人気があり、港や船体の図柄などに長崎古版画の影響や関連が見られる作品もあります。

横浜浮世絵は、1860年(万延元年)~1872年(明治5年)頃の12年間にかけて制作され、作品総数は840点余り、作品の半分以上が横浜港開港直後の2年間に集中しており、年代的推移はとても短いものでした。港を中心とした外国船の出入りの様子や貿易の有様、外国人とその珍しい風俗・習慣、横浜の賑わいや街並、港町を中心として作られた遊郭の隆盛、舶来物や渡来したサーカスや象などの見世物、横浜の地図類や案内書などが描かれ、12年間の流れをみると前期は人物中心、後期は建物中心と言えます。

絵師では、当時江戸で活躍していた横浜浮世絵の第一人者の歌川貞秀を始め、芳虎や芳員、二代広重、三代広重など50人余りがいます。長崎古版画は制作年や絵師など不明な点が多いですが、横浜浮世絵は絵師や版元が明瞭で、日々変化し発展する対象物や時事の題材をよりスピーディーに制作されました。

その後、「開化絵」と呼ばれる東京を中心とした文明開化の様子や風俗、西洋建築物、開通したばかりの鉄道などの新しい題材を描いた浮世絵へと移行していき、やがて横浜浮世絵は自然消滅します。

横浜浮世絵は、美術史上では、輸入品の粗悪な色料を用い彫り・摺り共に雑な点が目立つなどといった指摘がありますが、当時を的確に知る歴史記録資料として価値があると共に、当時の人々が外国文化に対してどのような関心があったかを知る資料としても大変貴重なものと言われています。