山本美術館 > ブログ > 『消えたカラヴァッジョ』

『消えたカラヴァッジョ』

2008-07-04

カラヴァッジョ(1571~1610)は、イタリア・ミラノ出身のバロックの第一人者で、劇的な構成力や明暗表現を生み出し、絵画の新たな様式を切り開いたイタリアバロック絵画の巨匠画家です。ルーベンス、レンブラント、ベラスケス等のその後に続くバロック期の画家たちに多大な影響を与えたと言われています。

そのカラヴァッジョの作品『キリストの捕縛』が、1990年にアイルランドの教会で発見され、真作と断定され大きな話題を呼びました。その一件を発端として取材した米国のノンフィクションライター「ジョナサン・ハー」著作の単行本『消えたカラヴァッジョ』の翻訳本が昨年末刊行されました。

本書は、1602年にローマで描かれたカラヴァッジョの『キリストの捕縛』が紆余曲折を経て数世紀もの間、人から人の手に渡り歩いた経緯を追いながら、同時にカラヴァッジョの数奇な生涯を辿り、光と影が織り成す作品の魅力を紐解いています。

ローマ大学院生で美術史を専攻する才女のフランチェスカ・カッペレッティを中心に、イタリア美術史学者で世界トップのカラヴァッジョ研究権威者のデニス・マーン、ナショナル・ギャラリー・オブ・アイルランドの修復士のセルジョ・ベネデッティ、ローマの美術商兼修復士のマリオ・ビゲッティと目線を変えながら物語は展開していきます。この4人はいずれもフランチェスカが命名するところの“カラヴァッジョ病”に侵されている熱狂的なカラヴァッジョ信奉者とも言うべき人たちです。17世紀においても、カラヴァッジョ作品の卓越した写実性と強烈な感情表現、光影を巧みに用いて色彩が澄んで輝きに満ちた艶のある質感は、それまで目にしたことのない独特の様式で人々を魅了し、多くの追随者が出て“カラヴァッジェスキ”と称されるほどでした。

しかし、光と闇のコントラスト宗教画の名作を残した明暗表現の魔術師は、人生でも明暗が際立っていました。彼は激情型の性格で遊蕩、飲酒、乱暴狼藉が絶えず、繰り返し事件を起こしては投獄されました。既に画家として名声を得ていた1606年には、とうとう殺人を犯してローマからナポリ、シチリア、マルタと逃亡しますが、逃亡中にも拘らず聖堂から複数の制作依頼を受け革新的な宗教画を描いています。そして、心待ちにしていた恩赦の噂を聞きつけローマへ戻る途中トスカーナで熱病に罹り、1610年39歳で孤独な死に見舞われてしまいます。殺人者カラヴァッジョの描いた作品は、当時教会において物議を醸し倉庫で埃塗れになった作品もあったといいますが、誰もが彼の作品の劇的な構成力や独創性を評価していました。

数世紀の時を経て忘れ去られたかに思われていた20世紀中頃、イタリアの美術史家でカラヴァッジョ研究の第一人者ロベルト・ロンギの尽力で、カラヴァッジョは西洋美術史上最大の天才に挙げられ、彼の肖像画は1983年に当時の最高額紙幣で最後の10万リラ絵柄に採用されました。

カラヴァッジョの描いた作品数は、現在のところ80点足らずと言われていますが、数世紀にわたり散逸し第二次世界大戦で焼失したものもあります。そのような背景の中、カラヴァッジョ作と思われる絵画が発見されても贋作や模倣作品が多く、今なお真作問題が論じられている作品もあるそうです。

真作の判断材料として来歴を辿るための古文書は欠かせませんが、古代ローマ時代から数多くの歴史が刻まれ世界の美術界をリードしてきたイタリアは、歴史の痕跡が類型的に保存されていて古文書学が発達していると言われています。イタリア人の愛国心の強さを感じますが、数世紀前に生きた人たちの生涯全てを把握するのは不可能と思います。

登場人物が全て実名のノンフィクションの『消えたカラヴァッジョ』は、テンポよく吸い込まれるように読み進めることができるお勧めの一冊です。光と影の巨匠「カラヴァッジョ」の名作が、日の当たらない世界の何処かで未だに静かに眠っているかも知れません。

カラヴァッジョ『キリストの捕縛』

ダブリン・アイルランド国立美術館蔵