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美人画について~(5)-2~

2008-09-15

2、浮世絵に見る江戸の評判娘 歌麿と判じ絵・コマ絵

喜多川歌麿全盛の寛政期(1789~1801年)には、両国薬研堀のせんべい屋が経営する水茶屋の「高島おひさ」と、浅草寺随身門脇の水茶屋の「難波屋おきた」の2人が、市井の評判娘の中で最も頻繁に浮世絵美人画に登場します。また、ナンバーワン芸者といわれた富本節の名取芸者「富本豊雛」は、おひさ・おきたと共に歌麿の描く寛政の三美人に選ばれています。女芸者は、日頃から芸を磨き、芸一途に生きる身持ちの固さを誇りにしていました。教養豊かな文化人や最高級の花魁にも引けを取らない芸者ならではの渋さと粋な身のこなし方や、気品漂う爽やかさが伝わってくるようです。

寛政の改革が起こったこの当時、幕府が一枚絵に一般庶民の名前を記して浮世絵を描くことを禁止したため、名前を絵や文字の組み合わせで表記する「判じ絵・コマ絵」といわれる方法が生まれました。

歌麿の有名な作品『當時三美人』を見てみると、中央が富本豊雛で富本一門であることを示す桜草、左のおひさは桐、右のおきたは三つ柏とそれぞれの着物や団扇の紋柄で人物が見分けられます。また、『五人美人愛敬競 兵庫屋花妻』の上部分のコマ絵で、兵庫髷のかつら、、桜の逆さの松の枝で、兵庫屋の花妻を表しています。同音異義語が多い日本語の特性を生かし機転の利いた日本人の粋な部分を表しています。

絵がただ単純に美しいだけではなく、一流絵師だからこその感覚とデザイン、機知に富んだ表記法で、評判の高い町娘たちの美しさが一層際立っています。

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喜多川歌麿『當時三美人』 千葉市美術館

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喜多川歌麿『五人美人愛敬競 兵庫屋花妻』     太田記念美術館